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明大レスリング部のあゆみ
 
 
日本レスリングの始祖 内藤克俊
 
 内藤克俊は日本のレスリング界にとって忘れられない男である。
広島県出身。台湾台北一中より鹿児島高等農林学校(現・国立鹿児島大学)を経て、大正9年(1920)、米国ペンシルバ二ア州立大学に留学した。柔道3段であった彼は、米国ローカル大学リーグでレスリング選手として活躍し、たちまち同校レスリング部のキャプテンに推された。
排日移民議案が可決された当時のアメリカで、日本人が大学スポーツ部のキャプテンに就任したということは、内藤に人望があったからこそとわかる。当地の新聞は内藤を「タイガー」と称賛した。その名声を聞いた駐米大使・植原正道が日本体育会に推薦し、第8回パリ・オリンピック大会にレスリング選手として派遣した。
内藤克俊
写真提供:宮沢正幸拓大OB
大正13年(1924)
第8回パリ・オリンピック大会(5/3〜7/27)に出場した内藤克俊は、レスリング・フリースタイル・フェザー級(61kg)に出場し、第3位に入賞。パリの上空に日の丸を掲揚してに日本チームの栄誉を一人背負ったのである。内藤は後にブラジル開拓事業に人生を捧げた。
くしくも戦前の日本初めてのメダリストが内藤であるが、28年後、戦後の国際スポーツに復活した昭和27年(1952)第15回ヘルシンキ大会に於て、バンタム級に出場した石井庄八(中大.OB)が日本初の金メダルを獲得した事を我々は銘記すべきである。
石井庄八
(中大OB)
   

これを聞いた柔道、相撲等の格闘種目の関係者は瞠目した。特に講道館では、内藤克俊が柔道3段である事を聞き「柔道3段で銅なら、5段であれば金メダルは確実である」「レスリングは、柔道の亜流である」という考え方が流布し、そのためレスリングは柔道と決別する迄に時間がかかったのである。
彼らは、内藤は柔道3段ではあったが、米国学生リーグで活躍したレスラーである事を忘れていた。

 

 

 

昭和3年(1928)
第9回アムステルダム・オリンピック大会(7/28〜8/12)では、講道館から新免伊助5段を派遣したが、1回戦で敗退した。柔道界は愕然とした。この時レスリングの有志は柔道からの決別を考えたのも当然であった。

内藤克俊戦績(1924年第8回パリ・オリンピック大会)
フリースタイル:フェザー級
【1回戦】 VS   不戦勝
【2回戦】 VS フーベルト(ベルギー) 判定勝
【3回戦】 VS リード(アメリカ〉 判定負
2位決定戦 VS ニュートン(アメリカ) 判定負
3位決定戦 VS フーボーネン(フィンランド) 判定勝
1位   リード(アメリカ)    
2位   ニュートン(アメリカ)    
3位   内田克俊(日本)    
    (日本選手団:28名(役員9名、選手19名)

 

新免伊助戦績(1928年第9回アムステルダム・オリンピック大会)
フリースタイル:ライト級
【1回戦】 VS モーレ(スイス) 判定負
   

(日本選手団:56名(役員13名、選手43名)

 

 

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