明大レスリング部OB会より
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明大レスリング部のあゆみ
 
 
霜鳥武雄(昭和28年卒)が語る
新潟県から明大レスリング部への道を拓いた功労者
 

まず最初に、レスリングを始められた動機から伺います。
太平洋戦争中は甲種飛行予科練の二飛曹だったんですが、敗戦で復員してきてから日大に1年通いました。でも、どうしても競技スキーがやりたくて明大に転校したんです。そして、入学してから勇躍、スキー部の部室を訪ねて行ったんですが、幸か不幸か、ちょうどマネージャーは不在でした。
仕方がないですから、帰ってくるまでの時間つぶしにと思って、何の気なしにレスリング部の練習を見ていたんです。そうしたら、見ているうちに段々面白くなってしまい、すぐに入部してしまいました。

入部当時のレスリング部の状況はどんな感じでしたか?
我々が入る前のレスリング部は、わずか5〜6人しか部員がいませんでした。そこに新人部員として、大阪からの7名を筆頭に、九州から3名、東京から4名、新潟からの私と合わせて大挙5名が入部し、いきなり大所帯になったんです。
当時は食糧事情が悪い上に合宿所もありませんでしたから、京成電鉄の堀切菖蒲園にあった白雲寮を拠点に、すいとんやらサツマイモなどを主食に毎日を過ごし、何とか学業とスポーツを両立させていました。
 
当時のレスリング競技は、フリー・スタイルだけの6階級制でしたか、霜鳥さんはライト級で昭和23年から27年まで、全日本選手権で5連覇されていますね。同一クラスでの5連覇は、画期的な出来事だったんじゃないですか?
ある部員が、他大学の練習を見てきて「楽しそうに練習しているのが面白かった」と話していましたが、明大はまったくの正反対。シゴキがきつく、よその3倍もの努力と忍耐によって、栄光の座をつかもうと必死に練習したものです。全日本選手権5連覇というのは、その苦しかった血と汗の結晶が、実を結んだ結果だと思います。
昭和27年4月、農学部校舎の一角に合宿所が完成し、その年のオリンピック代表決定戦にライト級で優勝。同僚の富永氏もフェザー級で優勝し、共にオリンピック出場を果たしてすね。
ヘルシンキ・オリンピック大会では、フライ級の北野祐秀(慶大)か銀メダル、バンタム級の石井庄八(中大)が金メダル、フェザー級の富永別三郎(明大)が5位入賞、ウェルター級の山崎次男(関学)も5位入賞、そして私、霜鳥がライト級で6位入賞という快挙を成し遂げたことが、強く印象に残っています。
また、東生田に合宿所ができたことによって、団体生活の中で団結心、競争心、闘争心などか自然に育まれ、これが後の明大レスリング部黄金期への布石になったのでないかと思います。 
 

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レスリング生活を通してお感じになったこと、一番うれしかったことは何ですか? 
レスリングそのものとはあまり関係ないんですが、最近、テレビの大相撲中継を観戦していて、亡くなった後輩、の阿部一男を思い出しました。横綱になった朝青龍と非常によく似ているんですよ。顔つきや体形はもちろん、勝負に対する執着心、感のよさ、スピードなど、どれをとってもそっくりなんですね。まあ、本人が生きていれば「オレのほうが男前だ」と不服に思うかもしれませんが。(笑)
一番うれしかったことは、昭和29年の第2回マニラ・アジア大会に、新潟県出身の後輩2人と共に参加し、バンタム級で飯塚実、フェザー級で笠原茂、ライト級で私と、3人揃って優勝できたことですね。
どうもありがとうございました。
 
新潟スポーツ人間録
一瞬に泣いた五輪の本命
終戦後間もなくのレスリングの人気はすごかった。
昭和25年の東京品川スケートリンクでの日米対抗大会では5万人の大観衆が詰め掛けた。戦後初のヘルシンキ五輪が開かれたのは、そんな時代の27年7月だった。
本県からの出場選手は、中頚妙高村関山出身で明大3年のレスリングフリースタイル、ライト級代表の霜鳥さんただ1人。国内では無敵を誇り金メダルの呼び声が高く、県民の期待も大きかった。
1ヶ月前にはヘルシンキに入った。環境に慣れ、試合前の調整も万全だった。予想通り圧倒的な強さで勝ち進み迎えた4回戦。スウェーデンの選手を相手に優位に試合を進めたが、後半わずかなスキをつかれてフォール負けし6位に終わった。新潟日報は号外を出して、この結果を伝えた。
現在のルールは、両肩を1秒マットにつかなければ負けにはならないが、当時のルールは一瞬でもつけば負け。両肩がついたか否か、は微妙だったが抗議には5ドルが必要なこともあってジャッジを受け入れた。
「別に油断をしたわけじゃないけど五輪で勝つことの難しさをしみじみ感じました。」
明大に入学、レスリング部の練習をのぞいて面白そうだと飛び込んだ。越後人魂で頑張り通し、2年から全日本選手権大会で5連覇を達成した。28歳で一線を退いてからはローマ、東京両五輪で審判員も務めた。
現在は紙類の卸会社の会長。最近の新潟のレスリングには「若い芽がなかなか育ってこないようですね。かつて五輪で活躍した先輩がたくさにるんだから、もう一度王国を築いてほしい」

 

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