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明大レスリング部のあゆみ
 
 
回想録
澄水園が育んだ名選手
   
藤田嘉雄(昭和37年卒)
 
 高校時代、インターハイ及び国体の個人戦、更に選抜大会団体でも幸い優勝に恵まれ高校生の頂点に立つことができました。しかし、大学への進学は経済的な事情により、とても無理と諦めておりました。国体終了後は就職活動に取り組み、某社に応募書類を提出いたしました。そんな折、明大レスリング部から「澄水園」の存在を聞くと同時に熱心な勧誘を受けました。その際の「澄水園」に関する説明は将来性の有る学生、を受け入れ、食住を無償で提供し、僅かであるが金銭の支給も有るとのことでした。急転直下お世話になることにしました。関係者のご配慮とご協力により全く想像もしなかった明大レスリング部への入部が実現した次第です。人にはそれぞれ人生の転機がございます。私にとって「澄水園」は人生の進路を大きく転換した施設として、又、青春時代の何ものにも代え難い大切な心の故郷であります。
この度、創立70周年記念史を発刊するに当り「澄水園」に関する寄稿の依頼を受け、適任者に在らずと一度は固辞いたしましたが、明大レスリング部に「澄水園」の名を留める使命を感じ、当時の資料と徴かな記憶を辿りながら筆を執っております。諸先輩並びに関係者から、記述内容について正確さを欠きお叱りを受けるかも存じませんが、既に、40数年前のことにつきご容赦を頂きたいと存じます。


「『澄水園』の母体である社会福祉法人黎明会は敗戦直後の混乱の極にあった昭和20年12月、東京都の委託を受けて戦災者、引揚者、戦災孤児などの救済を目的として、上野池之端に収容施設を開設したことがその始まりです。この間、延べ1,400万人にのぼる厖大な人々に対して、ねぐらを提供し、衣食を支給し、さらに病める人や傷つける人々に対して診療を行なってきた。以降、戦後社会経済事情の激変に応じて、その折、最も必要とされる施設を創設し、又、その施設の必要性が薄らぐや躊躇することなく、より緊急性の高い施設に変換し、あるいは廃止するなど常に社会福祉法人の使命に徹した運営をおこなってきた。このことは、いうまでもなく理事長「鵜目栄八」氏の社会事業家としての卓越した能力と心魂を傾注した努力に負うところである。」
(黎明会三十年の歩みより)
本稿著者
 
昭和30年
高松宮殿下ご夫妻を迎えた園児
 
「澄水面」は昭和26年、母子家庭の厚生施設として開設されました。一見スポーツとは無縁と思えるこの施設を拠りどころに、明大レスリング部並びに柔道部から日本を代表する数多くの名選手を輩出致しました。その理由は何故なのか、偶然の結果では絶対に有り得ません。そこには、柔道とレスリングに情熱を注ぎ、前途有る学生に深い理解と愛情で接し、学生達から「おやじさん」と親しみを込めて呼ばれた一人の偉大な支援者の存在がありました。
理事長「鶏目栄八」氏こそ「澄水園」と明大レスリング部並びに柔道部との縁を産み、育んだその人であります。そのきっかけは、厚生施設収容者の中には放縦な生活をする者もあり、酒を飲んで刃傷沙汰に及ぶ者、競馬、競輪、賭博などで生活をかえりみない者などが雑居していたために、その生活指導にはある程度温情を越えた指導力も要求されました。また、収容者の生活指導に最も重要な役割を持つ指導員が欠けていたため、しばしば争いが起こり、収容者の統制も乱れがちで、運営にも支障を来たすこともありました。当時、常務理事の鵜目氏はこれを改善するため、「社会福祉事業としては異例なことではあったが、生活指導員に明治大学出身の同大学柔道部OB助教授の久米、斉藤両氏のほか、同大学レスリング部学生の霜鳥氏を採用し職務体勢を整え、機能の強化を行なった」と黎明会の歩みに記述されており、言葉は悪いが腕っ節の強さを買われ、用心棒的存在として採用されたことが始まりになります。
これが機縁になって学生指導員の採用が継続されることになりますが、その期間は定かでは有りませんが昭和20年代後半から40年代中頃までと推測されます。そしてこれらの学生の中から次々に日本を代表する名選手が育っていきました。
レスリング界では霜鳥武雄先輩(ヘルシンキ・オリンピック6位)、笠原茂先輩(メルボルン・オリンピック銀メダル)、阿部一男先輩と青海上先輩(ローマ・オリンピック出場)、宗村宗二君(メキシコ・オリンピック金メダル)と柳田英明君(ミュンヘン・オリンピック金メダル)等、創立70年の歴史の中で部を代表する名選手達がこの「澄水園」(黎明会・南台病院含む)から世界へ大きく飛躍しました。
また、柔道界では曾根康治先輩(全日本・世界選手権優勝)、神永昭夫先輩(全日本3回優勝、東京オリンピック銀メダル)、坂口征二君(全日本優勝・後にプロレス転向)、篠巻政利君と須磨周司君(世界選手権優勝)、川口孝夫君(メキシコオリンピック金メダル)など綺羅星のように誕生しました。

さて、私は昭和33年3月末、新潟から上京し澄水園での生活がスタートすることになりました。澄水園は、京浜東北線赤羽駅より川口市に向かい、荒川に架かる新荒川大橋の手前を左折してから、程近いところに位置しておりました。園内には管理棟、居住棟、炊事場、保育所、診療所の各施設を備え、生活保護を要する母子世帯や独身女性が併せて常時300名くらい居住し、その人達を支えるため鵜目理事長をはじめとする、事務職員、指導員、寮母、調理員、保母、そして医師・看護婦等が配置されておりました。事務職員の中にはレスリング部OBの井削光司先輩、柔道部OBの工藤欣一先輩がおられ、お二人には兄貴のような存在として公私に亘りご指導ご助力を頂きました。そこに私達学生は神永昭夫先輩をはじめとする巨漢揃いの柔道部員が11名、レスリングは青海先輩と私の2人、さらに異色の自動車部員2名の計15名を加えた、様々な人達の出会いと、始めて親元を離れ大都会での共同生活に適合するかどうかとで、少なからず不安がよぎったことを改めて想いおこされます。
このような環境の中で学生は準職員としての扱いを受け二足の草桂の生活が始まりました。一日の標準的な日課は次のようなものでした。朝6時起床近くの荒川までランニング、7時炊事場で居佳者へ朝食の配給手伝い、その後学生各自朝食、午前の授業出席のため大学へ登校午後本校地下道場で練習、6時頃帰園し自分達の夕食調理・診療所の手伝い・子供遠のために柔道の稽占を当番制で行い、その後学生全員で夕食、そして事務所で夜問来訪者の応対、就寝は11時前後になったと思います。この様に、日課を答べると園内の生活は型に嵌められ、仕事が多く随分きつそうに思うでしょうが、昼は学生として自由に行動できたし、また、夜は人との触れ合いが多く、やり甲斐を感じながら、結構楽しく生活していたと思います。

ここからは、部分的にエピソードを交えご紹介いたします。まず、最初は猛者揃いの柔道部員のこと。当時は未だ体重制が導入されておらず何れも巨漢揃い。食べる、飲む、着る、履く全てがピックサイズに驚きの連続でした。大中小各サイズ取り揃えのレスリングとは随分世界が異なり違和感がありました。特に、3年後輩の坂口征二君(後にプロレス転向)が入園した時は、玄関に脱がれた靴を見て、余りのビッグサイズに背筋が凍る様な思いをした事を、今でも忘れることはできません。また、困ったことに柔道には体重制が無いので、減量の苦しさを理解できる筈も有りません。私が試合数日前から食事を抜いて減量に取り組んでいると、「終戦直後の食糧難の時代でもあるまいし、飯も食えないとはレスはしんどいな」と同情とも揶揄とも取れる言葉に因果なスポーツと感じたこともありました。そこで減量には不具合な環境故に、試合前は生田の合宿所に外泊する機会が多く、同期生からお客様として歓待されたことがやけに嬉しく思えたものでした。
人間幾つになっても食事は楽しみの一つです。練習後の空腹にはより一層食事の時間が待ち遠しいものです。但し、これが尋常ではありません。ライスは外米で細長く、やや黄色く、独特の匂いが伴い、炊きたてはそこそこ食えますが、冷えるとぽろぽろで箸にかからず閉□したものです。おかずは1年生が当番制で作ります。私が当番の時、納豆の味付けを醤油と砂糖で甘辛くしました。すると先輩から、こんな甘い納豆は食えるかと怒られ、怪訝な思いをしたことがあります。何故ならこの味付けは、我が家ではおふくろの味でごく当然のことでした。そんな失敗もありましたが、今は塩と葱を薬味に納豆を食べています。また、味噌汁のつくり方も教えを乞いながら上達し、すこぶる好評を得たと自負しています。園内の食事で物足りなさを感じる時、中学、高校、大学、そして澄水園まで一緒の青海先輩から新宿のお姉さんの家へ幾度となく案内され、その度に、手料理がテーブル一杯に並べられ、お腹がはちきれるほどにご馳走になりました。人の親切さと温かさを感じる幸せなひと時でした。

鵜目理事長は施設の子供達を健全に育成するため、柔道を教えて心身の鍛錬を行いました。園内の保育園が夜は道場に変身、指導員は私達学生です。時には学生回志の乱取りもあります。ある日、神永先輩からレスリングをやろうと声が掛かりました。予期せぬ申し出にためらいは有りましたが後に引けません。直ぐに上半身裸で試合開始。大きな相手を倒すにはタックルが効果的と考え、足元に飛び込みましたが敢え無く不発。寝技で揉みあっている内に押さえ込まれ、フォール負けのほろ苦い経験があります。このエキジビションマッチは、神永先輩、との懐かしい一コマとして記憶されております。笠原先輩も道場の指導員の時に乱取りを行い、柔道部員がきれいに一本取ろうと懸命に仕掛けましたか、遂に取れなかったそうです。オリンピックの銀メダリストはさすがに一味違うと感嘆していたことを、後日談として聞いたことかあります。

これまで澄水園のこと、レスリング部や柔退部との関り、園内生活の極一端を紹介致しましたが、少しでもご理解いただけたら幸いです。澄水園には前にも触れましたが、個々の事情や理由はさて措き、不遇な人達、即ち生活保護を要する婦女子やその子供達が多数収容されておりました。この様な特異な環境の中で、或る時は園の準職員、学生、そしてレスリング部員として4年間過ごし、貴重な経験と修行をさせて頂いたことは誠に有難く、鵜目理事長をはじめ多数の関係者のご支援とご配慮に、現在も感謝の気持ちを忘れてはいません。
澄水園が在って明治大学に進み、最強のレスリング部で汗を流し、素晴らしいチームメイトに恵まれ、喜怒哀楽を共にした日々に「我が青春に悔いは無し」と結びたいところですが、私の胸の一隅に拭っても拭い切れない曇りがございます。それは、ビッグタイトルを勝ち取り鵜目理事長にプレゼントできなかったことに尽きます。恩返しを果たせぬまま卒業したことは、今もって大きな悔いを残しております。
鵜目理事長が他界され、既に長い歳月が過ぎ去りました。その後、澄水園に縁のあるレスリングの笠原先輩、阿部先輩、柔道の曾根先輩、神永先輩が早逝されております。それぞれレスリング、柔道の分野に於いて数多くの栄光と功績を残し、なお指導的立場でご活躍されておりましたので哀惜の念に耐えません。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
     
 
 
 
 
 

 

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