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明大レスリング部のあゆみ
 
 
  杉山恒治(昭和38年卒)が語る
レスリングを始めて、わすか10日で日本一
 
まず最初に、レスリングを始められた動機から伺います。

私は昭和20年に旧制の新潟の小学校に入学しました。
その年の8月に終戦になり、日本はアメリカ軍の占領下におかれました。学校教育からは武道が禁止されてしまい、それまで必須科目であった柔道・剣道などは勿論追放です。そこで私は不得手な泳ぎを覚えようと水泳部に入りました。相当に厳しい練習が続けられました。高校2年の春です。風間英一さん(早大OB、平成13年5月8口ご逝去)が帰郷され、地瓦新潟市の高校レスリングの普及と指導に当たられるようになり、新潟高校にレスリング部が誕生しました。私も級友に誘われるままに陸に上がったカッパよろしく、私のレスラー人生がスタートしたのです。
杉山恒治氏
 
杉山さんは高校時代に柔道をやってらして、大相撲にも勧誘 されたとお聞きしました。そんな杉山さんがレスリングを目指した動機を聞かせてください。

柔道の高校チャンピオン、そして相撲でも全国のベスト16を経験しました。小学校の頃から夏休み、冬休みは明治には稽占で通っていたので、自分では当然、明治の柔道部に進むものだと思っていたのです。
しかし、当時の部の顧問の先生が「同志社に進むよう話を決めたから」とおっしゃって、結局は同志社に進んだのです。同志社の柔道部では、私の体躯が大きく強かったこともあったのか、先輩が稽古をつけてくれなかったんですね。何かというと「ランニングしてこい、うさぎ跳びしてこい」と(笑)。
結局、冬にグラウンドで一人でトレーニングをしていて肺炎を起こしてしまったのです。父親かカンカンに怒りましてね。「うちの大事な息子に何するんだ」とトラックを合宿所に横付けにして荷物を運び出し、部と大学を去りました。それか1年の終わりです。
その後に身体も完治して稽古に励んでいたところ、中京大学の部にコーチ兼特待生で迎えていただきまして、2年への進級時に改めて明治へ編入しようと考えたのです。ところが、当時の明治柔道部の顧問の先生が非常に怒ってらっしゃいまして。
「うちに来ると言いながら直前に同志社へ進むとは何事だ、杉山は人間として信用ならん」と言うわけですよ。私としては、高校時代にお世話になった顧問の先生に従ったに過ぎないのですが、結果として部の方の心証を害することになってしまい、途方に暮れてしまったわけです。そんな時、柔遊部の副監督だった久米先生がレスリング部にも関わりがあったのでしょう。「杉山君、農学部に推薦で迎えるかたちにするからレスリング部に入る気はないか?」とおっしやってくださったのです。東京オリンピックの前で、ちょうど重量級の選手がいなかったということもあったようですが。結果として私は2年時から、明大レスリング部に入部したのです。
 
入部当時の想い出をお聞かせください。

高校時代に出場した柔道と相撲のインターハイで対戦した選手が部にはおりまして「杉山、よく来たな」と歓迎されました。私も思わぬ再会をうれしく思った記憶があります。
レスリング部への入部10日目にローマオリンピックの最終予選があったのですが、私はそれで優勝してしまったんですね。最終的には経験不足を理由にローマヘの出場はならなかったのですが、当時の新聞に「新人杉山。10日で全日本優勝」と書かれ大変な騒ぎになった。私はおだてられるとすぐその気になるので(笑)「これはレスリングは面白いな」と急速に夢中になっていったのです。
結局、明大レスリング部時代に全日本学生選手権と全日本選手権で優勝、昭和39年の東京オリンビックヘの出場を果たすことができました。
 
プロレスラー時代
チャンピオンベルト姿のサンダー杉山
卒業後の昭和40年には同じ明大レスリング部出身のマサ斎藤選手、ラグビーから転向のグレード草津選手とともに日本プロレスに入団、サンダー杉山のリングネームで大活躍し将来を有望視され、翌41年には国際プロレスの旗揚げに参加、そのまま渡米されました。

当時、後に「べに花」チェーンで大成功を修めたロッキー青木さんがレスリングで全米選手権に行かれて、学生時代に大会でニューヨークを訪れた時などにお世話になりました。その頃アメリカの空気、居心地のよさを強く感じまして「この鍛えた身体を武器に頑張ってみようか」と決意し渡米したのです。アメリカでは「トーキョー・ジョー」のリングネームでヒールとして人気を集めました。あのアブドラ・ザ・プッチヤーとタッグを組んだこともあるんですよ。

43年にグレード草津とともにTBSプロレスのエースとして帰国後は、国内のマットで大活躍しましたね。

帰国した年の7月に豊登とのコンビでTWWA世界タッグを獲得しました。45年5月にはビル・ロビンソンからIWA世界ヘビー級選手権の獲得に成功し、翌年3月にビル・ミラーに敗れるまで9回の防衛を重ねました。「雷電ドロップ」と呼ばれたヒップドロップが話題になったのもこの頃です。多くの選手と試合をしましたが、やはりルー・テーズは強かったですね。当時の日本人選手で彼と引き分けたのは私だけだったんですよ。
 
以後、杉山さんは70年に同郷のジャイアント馬場選手に誘われ全日本プロレスに移籍、旗揚げメンバーとなり選手不足 の全日本プロレスの貴重な戦力として活躍されました。全日本プロレスには50年開催の第3回チャンピオン・カーニバルまで参戦、脱退後の51年、古巣の国際プロレスヘのレスラー復帰、53年には新日本プロレスのプレ日本選手権への参戦など、素晴らしいファイトを我々に見せてくださいました。また、同時期に「サンダー杉山エンタープライズ」を設立、幅広い人脈とレスラー時代さながらの行動力で、年商35億円の大企業へ成長させ大成功を成し遂げられました。
同時期にテレピ番組などにも出演してましたが、あくまでもピジネスの宣伝のため、という風に割り切っていました。テレビの世界でちやほやとされていては駄目になるな、と分かっていましたし、選手時代と同様に自分で「辞め時」を見極めて、タレント活動からの身を引きました。
平成14年2月26日
中京スポーツ新聞より転載
 
最後に明大レスリング部を含めた日本のアマチュアレスリング界へのメッセージをお願いします。
情熱を持ったりーダーの不在を強く感じます。
実際の技術面の伝授もそうですが、まずは雰囲気。みんなをその雰囲気という乗り物に乗せる、今はそれをできる人がいないように感じますね。また、勢いというのは強いものです。山登りもそうですが、山頂を目指しているときは苦しいけど頑張れる。ところが一度転げ落ちると止められないもので、一度下まで落ちて改めて山頂を目指したほうがいい場合もある。
試練や苦しいことなんて「あって当たり前」って思っていないと立ち直れないものです。若い人たちには常に強い信念を持ってほしいと思います。
 
このインタビューの後、平成14年11月22日に杉山氏は永眠されました。
謹んでご冥福をお祈り致します。
 
平成14年2月26日 中日スポーツ新聞より転載

 

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